越後アンギンとは

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越後アンギンとは

アンギンというのは、からむし(青苧)、アカソ(赤苧)、ミヤマイラクサなどの繊維を原料として編まれた布で、法衣や敷物、袖なし、前掛け、袋などさまざまな用途に使われたようである。
アンギンの語源は編衣(あみぎぬ)であり、阿弥衣という表記もある。
考古学の発掘調査の発展によって、アンギンが縄文時代人の衣料の主流であった事が明らかになってきたが、この古い技法を現代に伝えるアンギン製品や製作工具、製作技法が保存伝承されているのは、全国的に見ても新潟県だけなので越後アンギンと呼ばれている。
越後アンギンと言っても、アンギンの残っているのは県内一円ではなく、十日町市、津南町、松之山町、松代町を中心とする魚沼地方だけで、学術的にも極めて貴重なものである。
名称も地域によって異なり中魚沼郡はアンギン、十日町市の山間部はマギン、松之山町や松代町ではバト(バトウ)と呼んでいる。
マギンというのは「馬衣」の意味で、アンギンが馬から鞍下から尻にかける布として使われていたのでマギンと呼ばれた。
アンギンを編む工具は簡単で、俵編みのようなケタとアミアシを組み合わせた用具と、タテ糸を巻きつけてケタに吊るし、移動させながら編んでいく用具としてのコモヅチの2つだけである。

越後アンギンの起源

古代人の作布技法には織布と編布の2種類がある。布を織る織物の原理は綜絖(そうこう)という工具を使ってタテ糸を交互に上げ下げして、その間にヨコ糸を通すという作業の繰り返しによって作布するものであり、綜絖がないと織物は出来ないと言われている。
一方、編物は1本の糸を編み棒で絡ませながら作布するか、またはタテ糸とヨコ糸を別々に用意して交互に絡ませて作布するという単純な作業なので、用具もケタとコモヅチがあれば良いので、発生史的には織物よりも編物が先行したというのが定説になっている。
日本では、織物に必要な綜絖が約2.000年前の弥生時代に大陸から伝来してから織物が始まったと言われ、それ以前の縄文時代人の衣料は編物が中心であったことが、最近の遺跡の発掘調査で明らかになっている。
全国の縄文時代の遺跡から編物の遺品は出土しているが、織物の残欠は発見していない。現在までのところ編布の現物は次の9遺跡から出土している。

北海道斜里町朱円遺跡(縄文後期)、 北海道小樽市忍路土場遺跡(縄文後期)
青森県木造町亀ヶ岡遺跡(縄文晩期)、 秋田県五城目町中山遺跡(縄文晩期)
山形県高畠町押出町遺跡(縄文晩期)、 宮城県一迫町山王遺跡(縄文晩期)
福島県三島町荒屋敷遺跡(縄文晩期)、 石川県金沢市米泉遺跡(縄文晩期)
福井県三方町鳥浜貝塚(縄文晩期)

このうち最も古いのが鳥浜貝塚で、約6.000年前の縄文時代の前期の地層から編布が出土している。これらの異物の素材はアカソ、からむし、イラクサなどで、組織は「越後アンギン様編布」だと報告されているので、越後アンギンの歴史は6.000年前に遡る事がかのうである。これらの出土資料によって、縄文人の衣料の主流はアンギンであり、数千年の長きにわたって伝承されてきた技術であることが判明している。

縄文人の衣料の中枢を占めていたアンギンも弥生時代以降綜絖の伝来によって織物と言う新技法が導入されると、編物よりもはるかに精巧な布を作る事のできる織物が衣料品の主流になる。編物は急速に衰退の一途を辿り、丈夫さや厚さなどの特性を生かした特殊な用途に限られて細々と技法が伝えられたと推測される。
その一例として有名なのが、時宗の僧侶が身に纏ったアンギンの法衣である。今から700年ほど前に時宗を始めた一遍上人は、遊行のための野宿の夜衣などに兼用したと思われるアンギンの法衣を着ていた事が「一遍上人絵伝」の挿絵などによってしることが出来る。今でも柏崎市専称寺など全国9か寺の寺院にアンギンの法衣が残っており、これを阿弥衣と呼んでいる。

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