「からむし」の歴史

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最古の越後産麻布

越後の麻織物が、いつ頃から始まったのか明らかではないが、現存している最古のものは奈良の正倉院に所蔵されている麻布である。
正倉院というのは、東大寺に大佛を建立された聖武天皇が亡くなられたとき、光明皇后が天皇の遺愛の品々を東大寺へ寄進され、それを保存するための校倉式の建物である。
昭和28年、正倉院の調査に当っておられた大賀一郎博士によって、未整理の所蔵品のなかから墨書銘文のある越後布が発見された。

天平勝宝5年(753)3月29日に東大寺でおこなわれた仁王会(にんのうえ)に使った屏風を入れる袋の裏地で、生地はカラムシ(苧麻)で織った麻布である。今から1255年以上前の製品であって、幸いなことに、越後国 久疋(くびき)郡 夷守(ひなもり)郷の戸主・肥人砦麻呂という者が、労働負担の代納物である庸(よう)として貢納した旨の墨書銘が残っている。
ここに書かれている久疋郡は、現在の頚城郡(*1)で、夷守郷は“ヒナモリ”と読み、旧 美守(ひだもり)村、現在の中頚城郡三和村(*2)である。

  *1 頚城郡 - 新潟県上越地方に相当するが、
             糸魚川市、上越市、妙高市、柏崎市の西部の一部、十日町市の西部
  *2 中頚城郡三和村 - 合併により新潟県上越市三和区


貢納者の肥人砦麻呂は “ヒノヒトノアザマロ” か “コマヒトノアザマロ” と読むことができる。
もし “コマヒト” と読むならば “肥人” は “高麗(こま)人” で朝鮮半島からの帰化人か、その子孫であることも考えられる。

日本の織物の歴史にとって、5世紀から6世紀は大きな変革の時期であった。当時の中国や朝鮮半島をめぐる国際情勢の緊迫化にともなって大陸からの帰化人来往が一段と多くなり、帰化人たちのもたらした先進の織物技術によって日本の織物も長足の進歩をとげた。
渡来者が土着したのは畿内(きない)だけでなく、地方の国府やその周辺にも移住して養蚕やハタ織りの技術を教えたといわれている。
当時の越後国の国府の所在地は異説があってさだかでないが、古代には夷守村近く中頚城郡の山間地に越後国府があったという説も有力なので、この地方が大陸渡来の技術者によって織物の技術革新がおこなわれていた可能性も少なくない。

伊乎乃郡と波多岐庄

越後布というのは、古代から中世にかけて越後国で生産された麻織物のことで、越布(えっぷ) とか越白(えつはく)、白布などとも呼ばれ、室町時代以降になると “ゑちご” といっただけで越後布をさすほど有名になった。
越後布の素材は、カラムシ (苧麻-ちょま) の靱皮(じんび)繊維を糸に績いだアオソ(青苧)を織りあげたもので正倉院所蔵の墨書銘のある越後布も麻布である。
越後布といっても、この麻布は越後国一円から生産されていたわけではない。主産地は魚沼や頸城地方の雪深い山間地帯に限られていた。
「越後風俗志」には “苧麻は、古老の言に、上古、黒姫山におこり、頸城、魚沼、中郡蒲原の山あたりに皆産す。なかんずく妻あり(有)、さばし谷をもって名産とせり” と書かれ、妻有地方と鯖石(さばいし)谷 (柏崎市の鯖石川中流域) などが生産の中心地であったと伝えられている。

魚沼や頸城地方が越後布生産の中心になったのは、この地方の気候風土がカラムシ(苧麻)の生育に好適な条件を備えていたからである。
カラムシは、広く山野に自生していたので、はじめは野生のものを採取して使っていたが、越後布の声価が高まり需要が増大すると、野生のものだけではまかないきれないことと、高級化への要望にこたえ、糸質の向上を図るために、肥沃(ひよく) な上畑に植えて肥培管理を行うようになった。
カラムシという植物は、生育期にかなりの雨量を必要とし、湿度が高く、強風が少ないところのものがすぐれ、温暖地よりも寒冷地を好むので、魚沼地方はその適地であり、ここで生産された越後のカラムシは、近世にいたり東北地方のものが出廻るまでは、越後の代表的な産物として量的にも質的にも高く評価されていた。
市内に、麻畑、浅(麻)ノ平、東頚城郡松代町の苧(お)ノ島などの地名が残っているのは、カラムシを栽培した名残であろう。

青苧座と上杉氏

越後布は、越後の代表的な特産品として知られているが、それよりも素材の青苧(あおそ)という糸のほうが、各地の織物の原料として京都や大阪方面に出荷され、莫大な産額をあげていた。
この青苧の集荷から輸送、販売までの流通面は、青苧座とよばれる組織によって一手に独占されていた。座というのは、商工業者や運輸業者の特権的な同業者団体で、朝廷や貴族、寺社などを本所(座の支配者) にいただいて座役(税金) を支払う代りに、その権威によって販売の独占権や課税免除権などの特権を保証された排他的な組織である。越後の青苧座は公家の三条西家が本所で、その支配のもとに、地元越後においては府中(直江津) に本座があり、本座に所属する商人(本座衆) によって売買が独占されていた。
魚沼地方の青苧は、信濃川と魚野川の舟便で小千谷に集荷され、そこから馬に積んで柏崎か直江津へ出た。ここから専用の “苧船(おぶね)” によって越前の敦賀か小浜に陸揚げされ、陸路琵琶湖へ出て再び舟で大津へ運び、京都をへて大阪の天王寺の青苧商人の手へ渡ったといわれている。
しかし、応仁の乱や越後の永正の乱などで青苧役の納入がとどこおり、青苧座の実権は三条西家からしだいに守護代の長尾氏の手に移った。 とくに上杉謙信、景勝の二代にわたって財政力強化のために積極的な殖産興業政策がとられ、青苧と越後布に手厚い保護と奨励が加えられ上杉家の重要な財源になった。
なかでも景勝の家老、直江兼続は上田衆の出身で、のちに百姓大名と呼ばれたが、郷里の魚沼地方で生産されている青苧に着目して、品質を向上させるために上畑にカラムシを栽培することを奨励することによって、青苧と越後布の面目を一新させたといわれている。

兼続が米沢藩時代に著わしたといわれる「四季農戒書」に

  正月  家主娘女房は糸をとり、苧:お(青苧)をひねり、男子どもの着類を稼ぐべし
  二月  朝夕鋤鍬(すきくわ) をもってからむしのなえを取植しむべし……
  三月  麻畑をうない、残なく打うなうべし
  四月  からむし畑へ近辺の山々より萱(かや) をきりかけ、家近くならば風をうかがい焼べし
  七月  からむしを取るべきなり……からむしは田に出来る米にはまさりたり……

この文面からも兼続のカラムシにかけた情熱のほどがしのばれるし、その収入は米よりも多かったのでカラムシの奨励に力を入れたのであろう。  (十日町織物工業協同組合 昭和60年発行「きものの歩み 50周年」より)

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